Krishnamurti 愛について    Ver 1.22




愛とは時間としての思考の過程の完全なる終焉です。
そこには真の革命があります。
なぜなら、愛は一瞬ごとの革命であるからです。



愛は執着ではない。愛は悲しみを生み出しはしない。
愛には絶望も希望もない。
愛は社会的機構の一部として、尊敬を勝ち得ることはできない。
だが愛がそこに無いとき、あらゆる形の苦悩が始まる。
所有し、所有されることが愛の形なのだと考えられている。
この、人や財産を所有したいという衝動は、
単に社会や環境の要求なのではなく、はるかに深い源から生じている。
それは心の奥深いところにある寂しさからやってくる。
各個人はこの寂しさを、酒を飲むことや組織された宗教、信条、
あるいは、ある種の活動などそれぞれの仕方で満たそうとする。
これらは全て逃避であるが、なおも寂しさはそこにある。
ある組織、ある信念や活動に身を委ねることは、
消極的にはそれらによって所有されることであり、
積極的には所有することである。
消極的な、そして積極的な所有性は善をなし、世界を変える。
それはいわゆる愛である。
愛の名の元に他を支配し、適合させようとすることは所有したいという衝動であり、
他のもののなかに保護と安全を見つけ安らごうという衝動なのである。
他のものや、ある活動を通しての献身は執着を形作る。
この執着から悲しみと絶望が生まれ、これから分離の反動が生まれる。
この執着と分離の葛藤から闘争と欲求不満が生じるのである。
寂しさから逃避することはできない。
それは事実であり、事実から逃避することは混乱と悲しみを生み出す。
だが何物をも所有しないということは驚くべき状態である。
何の思いも持たずに、人やものをそのままにしておくというのは....
概念や思考が定着するとき、それはすでに所有であり、
そして自由になろうとする闘いが始まる。
そして、この自由は全く本来の自由ではない。
それは反応に過ぎない。
反応は根を下ろし、私たちの生は根のはびこった場所となる。
それらの根を全て一本ずつ断ち切ろうとするのは心理学的な愚かさである。
それは不可能だ。
だた寂しさという事実だけが見られねばならず、
そうすることによって、他のものはすべて消滅する。



依存、分離、対立、苦痛、恐怖があるとき、愛はない。
人を愛するには、相手からだけでなく、自分自身からの自由がなければならない。
愛は思考の産物ではない。
愛があるところ、比較があるだろうか。
愛があるところ、義務と責任があるだろうか。
悲しみ、自己憐憫は愛だろうか。
注視するなら、自分自身の内面で起こっているすべてを、
一目で、充分に、完全に、見ることができる。
「私」と呼ばれる見かけだおしのつまらないものの構造全体を
瞬時に見て取ることができる。
その醜さのすべてが自分自身の内にある。
訓練なしに、思考なしに、強制なしに、
どんな本も、どんな指導者もなしに、求めることなく出会うことが、
愛を見出す唯一の方法である。
愛は、新しい、新鮮な、生きてる何かである。
それは、思考が自分自身を理解し、自然に終止するときにのみあらわれる。
どのようにしてこの源泉に到達すべきであるか知らないなら、
何一つしないことである。
そのとき、内面的に完全に静かである、何も求めていない。
そのとき愛がある。



「あなた」と「私」が一個人として、自我の全体の働きを知ることができるなら、
そのとき私たちは、「愛とは何か」ということを知ることができるでしょう。
これこそ、世界を変えることができる唯一の革命であると私は確信します。
愛は自我に属するものではありません。
自我は愛を知ることができないのです。
あなたは「私は愛している」と言います。
しかし、言葉や経験そのもののなかに愛はないのです。
その反対に、あなたが愛を知ったとき、そのとき自我は消滅するのです。
愛があるとき、自我は消滅するのです。

結局、愛のなかには「関係」というものがないのではないでしょうか。
あなたが何かを愛していて、その愛の報酬を期待しているときに
初めて関係が生じるのです。
あなたが愛してるとき、
つまりあなた自身をあるものに完全に全体として委ねたときには
関係は存在しないのです。
もしそのような愛が本当に存在しているなら、
それは驚くほど素晴らしいことなのです。
そういう愛のなかには摩擦もなく、自他もなく、完璧な一致があるのです。
それは統合の状態であり、完全なのです。
完全な愛と共感があるとき、幸福で喜びに満ちた稀有な瞬間が訪れるのです。



快楽が主な駆動力であるとき、それは欲望なのです。
性的な感情が快楽から生まれるとき、それは欲望です。
もし、それが愛から生まれたものであれば、
たとえ至上の喜びをもたらすものであっても、それは欲望ではありません。
ここで私たちは、愛が快楽や楽しさを閉め出すものかどうか自分で確かめ、
見出さなければなりません。
あなたが雲を眺め、その広大さや雲を照らす光に歓びを感じるとき―
もちろんそこには快楽もありますが、快楽以上のものがあります。
私たちは決してこのことを咎めているのではありません。
しかし、あなたがその雲を刺激として、
思考のなかで―あるいは実際に―繰り返し味わおうとするなら、
あなたは自らが好きなように思い描く空想に浸っていることになります。
そして、ここには明らかに快楽と思考が動機として働いています。
あなたが最初にその雲、その美しさを見たときには、
そこに快楽という動機は働いていなかったのです。
セックスが美しいのは、そこに私・エゴが存在しないからです。
しかし、セックスについて考えることは、このエゴの肯定であり、それは快楽です。
エゴは常に快楽を求め、苦痛を避け、達成を願い、
そしてそのため欲求不満に陥っています。
このようにして情熱の感情は思考によって持続させられ、追求されます。
それゆえ、それはもはや情熱ではなく快楽なのです。
記憶のなかにある情熱を期待したり追求したりすることは快楽なのです。



美とは何かを理解することによって、我々は愛を知るだろう。
なぜなら美の理解は心の平和だからだ。



愛は持続しない。
それを明日まで持ち越すことはできない。
愛に未来はない。
未来を持つものは記憶であり、
記憶とは一切の死んで葬りされられてしまったものの残骸である。
愛に明日はない。
それは時間のなかで捉えることはできないし、
崇拝されるべきものにすることもできない。
時間がないとき、愛はある。
愛にはどんな約束も希望もない。
希望は絶望を生み出す。
愛はいかなる神にも属さず、
それゆえ、どんな思考や感情にも属していない。
それは頭脳によっては喚起されない。
それは、一瞬一瞬、生き、死んでゆく。
愛は破壊であるが故に恐るべきものである。
それは明日なき破壊である。
愛とは破壊なのだ。



あらゆる種類の動機が私たちを駆り立て、あらゆる行為には動機が存在し、
それゆえ、私たちは愛を持たない。
あるいは私たちは、私たちのしていることを愛してはいないのである。
私たちは、動機なくしては、行動し、存在し、生きてゆくことはできないと考えている。
そう考えることで私たちの存在を鈍感でつまらないものにしている。
私たちは、地位を獲得するために職務を行使する。
職務は何か別のものになるための一手段でしかない。
物事それ自体への愛は存在せず、そのためにあらゆるものが安っぽいものとなり、
関係は恐ろしい事柄となる。


執着は、私たち自身の浅薄さ、寂しさ、欲求不満を覆い隠すための手段でしかなく、
羨望は憎しみを生み出すばかりである。
愛に動機はない。
しかし愛が存在していないが故に、あらゆる種類の動機が忍び寄ってくるのである。
動機なくして生きることは難しいことではない。
それは、観念、信念に追従することのない誠実さを必要とする。
誠実さを備えているとは、自己に気づいていること、
自己が何者であるか一瞬ごとに気づいていることである。



暴力はエネルギーの一つの形であり、
愛もまたエネルギーの一つの形であると私たちは言っています。
―嫉妬のない、心配のない、恐怖のない、苦しさのない、
いわゆる愛に伴うすべての苦しみのない愛。
さて、暴力はエネルギーです。
嫉妬に囲まれ、取り巻かれた愛もまたエネルギーのもう一つの形です。
両者を超越すること、両者を超えることは、
まったく異なる方向、あるいは次元に向かう同じエネルギーを意味します。



日毎に死ぬ人は死を越えている。
死ぬことは愛することである。
美は過去の追憶のなかにも、明日のイメージのなかにもない。
愛には過去も未来もない。
あるとすればそれは記憶であり、愛ではない。
情熱を伴う愛は、社会、つまりあなたであるその領域を超越している。
死になさい。するとそこに愛がある。



「あるがままのもの」が神聖であるのは幻想が無いときだけです。
幻想が無いとき、「あるがままのもの」が神なのです。
あなたが居ないとき、神は存在します。
あなたが居ないとき、愛があります。



あなたは、知っている全てのものに対して、
明日を待たず、今すぐ死ぬことができるでしょうか。
この自由が永遠であり、至福であり、愛なのです。



人間の積み上げたあらゆるものは、全的に放棄されなくてはなりません。
それが死の意味なのです。
そうすることができますか。
いいえ、できないでしょう。
頭脳がそのように訓練されていないからです。
あなたの頭脳は、教育や伝統や本や教師たちによって、ひどく条件づけられてしまっています。
何が愛なのか見つけることが必要です。
愛と死は共に歩むのです。

死は言います。
自由であれ、執着するな、何も持ってゆくことはできないのだから、と。

また、愛は言います。
愛は―いや愛には言葉がありません。
愛は、あなたの妻、新しい恋人などからではなく、
自由、完全な自由の感じ、
膨大な力、活力、エネルギーがあるときにのみ存在するのです。



愛を理解するためには精神の仕組みを知らなければならない。
なぜなら愛を殺すのは精神だからだ。



何かを見るとします。
「素敵だ」と感じ、それから自分のものにしたいという欲望が起こります。
そこで、それを所有するという快楽を得るために、それを手に入れようと努力します。

この全てが中心を形成し、この中心が分離の原因になります。
この中心が私という感覚であり、これが分離の原因なのです。
なぜなら、この私という感覚は個別の感覚に他ならないからです。

人々はこれを自我と名づけたり、あるいは他の様々な名前で呼んできました。
―高次の自己という概念に対する低次の自己というように。
しかし、それについて複雑にする必要は全くありません。
それはごく単純なことです。

「私」という感覚―その活動のなかで自らを孤立化する中心―
が存在するところには分離と抵抗とがあります。
そして、このすべては思考の作用なのです。

ですから愛とは何かと言えば、それはこの中心がない状態です。
愛は快楽や苦しみではありません。
また様々な形に姿を変えた憎しみや暴力ではありません。



あなたが「私は誰々を愛している」と言うとき、それは愛ですか?
それならばその愛のなかには、観察者とあなたが愛する者、
すなわち観察される対象とのあいだの分離はないでしょう。
そうでないとすれば、その愛―それは思考の産物です。
したがってそこに愛はないのです。



あなたは「愛とは何か」とお尋ねになるかもしれません。
そして多分、誰かがあなたに答えるでしょう。
しかし、そんな答えに何の意味があるでしょうか。
愛することが何を意味するのかを見出したいなら、
あらゆる形の執着が終わらなければなりません。
執着は恐怖をもたらします。
そして恐怖があるなら、どうやって愛があり得るでしょうか。



あなたは、愛が静寂であることに気づかれたことはないでしょうか。
それは誰かと握手を交わしているとき、
あるいは子供をいとおしく見つめているとき、
また、夕暮れの美を経験しているとき、そこにあったかも知れません。
愛には、過去や未来という時間はありません。
それは、この驚くべき静けさの状態と共にあるのです。
そしてこの静けさなしには―それは完全な空っぽということですが―
いかなる創造もないのです。
あなたは、大変利口であるかも知れません。
しかし、そこにはどのような意味でも創造はなく、
ただ破壊と腐敗とがあるだけでしょう。
そうして精神はしぼみ衰えてゆくのです。
精神が静かで空っぽなとき、それが完全に否定の状態にあるとき―
それは空白でも、肯定に対する否定でもなく、
すべての思考がやむなかですっかり異なる状態にあるときですが―
そのときにのみ、名づけ得ないものの到来が可能になるのです。



◆ 「死について」と「生・美・芸術・創造」にも、関連する断片が幾つかあります。




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